【やりたいリハビリがふとわからなくなる理由
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ふと立ち止まってしまう瞬間がある。
それは決して特別な日でも、何か大きな出来事があったわけでもない。
いつも通りの、ただの臨床の1日。その中で、急に胸の奥に重たさを感じるときがある。
「リハビリしてあげたい人に、リハビリを届けられない」
この現実が、じわじわと心をすり減らしている。
「今日もよろしくお願いします」と笑顔で声をかけてくれる患者さん。
リハビリを通して、少しずつ生活が変わってきた方。
その人の中に芽生えた「もっとこうなりたい」という気持ちに、僕も応えたいと思ってる。
でも、現場ではそうもいかないことも多い。
算定、単位、優先度──そういった「制度上の都合」が、僕たちの現場には当たり前のように存在している。
拒否される方に、言葉を尽くしてリハビリに誘い、
本当は「今日は無理しなくてもいいんじゃないか」と思いながらも、単位のために時間を確保する。
算定点数が低いから
一方で、やる気のある方は後回しにせざるを得ない。
その人に何か非があるわけじゃない。ただ、「点数が低いから」という理由で。
そんなことで優先順位が決まってしまう現場のルールに、それをなんとか変えたいと思いながらも何もできない自分に、正直嫌気がさす。
リハビリできなかった日は、謝りに行く。
「なんで私は休みなの?」と、素直に不安そうに聞かれると、胸がギュッと締めつけられる。
でも本当の理由──「あなたは点数がつかないから、後回しにされました」なんて言えるはずがない。
もっともらしい理由を作って、曖昧にして、笑顔で謝る。そのたびに、自分の中の“リハビリ”が、少しずつ遠ざかっていく気がする。
制度にも仕組みにも意味があるのは理解している。それでも、患者さんと向き合いたい自分と、現場のルールの間で、少しずつ自分の気持ちがすり減っていく気がする。
以前の僕は、「その人がその人らしく生きていくこと」に寄り添えるようなリハビリがしたかった。
ただ歩けるようになるだけじゃなくて、
“この人にとっての意味ある生活”を一緒に探すような関わりをしたかった。
僕って加算療法士じゃん
“この人にとっての意味ある生活”を一緒に探すような関わりをしたかった。
それを今、ちゃんとできているだろうか?
「ただの単位消化作業」になっていないだろうか?「この人は加算がつくから優先度高いね。」って上司に言われて、言われるまま
忙しさに流されて、自分の気持ちをごまかしていないだろうか?
そんなふうに考える日が、最近は増えてきた。
「僕がやりたいリハビリって、なんだった?」
そんな問いが、心の奥から浮かび上がってきて、言葉にならないまま宙に漂っている。そんなことがきっかけに、よく考えるようになった。
【それでも心に残っている印象的なリハビリ】
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「リハビリはもう、いりません」
「リハビリはもう、いりません」
そう言われたあの日のことは、今でも胸に残っている。
その方は、もともとリハビリにとても前向きだった。
訓練中も、目標に向かって一生懸命取り組んでくれていた。
でも、点数の都合でリハビリの提供が減ってしまった。本人には言えないけれど、「制度」のせいで“優先順位”が変わってしまった。
何度かお休みが続いたある日、その方はもう、以前のように笑顔でリハビリ室に来てくれなくなった。
「リハビリはもう、いりません」
その言葉に、自分の無力さを痛感した。
あれは、自分の“やりたいリハビリ”とは真逆の出来事だった。
理学療法士でよかったと思った日
でも、そんな経験があるからこそ、心に強く残っている光のような出来事もある。
座ることすらできなかった方が、歩けるようになったとき。
「まさか、また歩ける日が来るなんて思わなかった」と涙を流してくれた。
その涙は、自分がこの仕事を選んだ理由を思い出させてくれた。
退院後にわざわざ病院まで顔を見せに来てくださった方もいた。
「先生のおかげです。あのとき、頑張れたから今があります」その一言が、どれだけ励みになったか、今でも忘れられない。
リハビリ中、何気ない雑談の中から「実は、また孫の運動会を見に行きたい」という想いがポロッとこぼれたこともある。
その一言から、目標が“ただ歩ける”じゃなくて、“グラウンドで応援する”ことに変わった。
そのために必要なことを一緒に考えて、一緒に取り組んで。
僕のリハビリを、“自分の人生の一部”として受け入れてくれたことが、何よりうれしかった。
そして、もう一つ忘れられないのが、
「今日は練習、なしにしませんか?」と提案して、車椅子で一緒に桜を見に行った日のこと。
いつもは辛そうだった方が、その日だけは心の底から笑ってくれた。
花の下で、ただ笑い合っただけ。
でもその時間こそが、「この人にとって意味あるリハビリ」だったように思う。
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やりたかったリハビリって
やりたいリハビリって、結局“何をするか”よりも、“どんな心で向き合うか”なんじゃないかと思う。
一人ひとりにとっての「生きたい日常」に、どれだけ寄り添えるか。
その答えは、マニュアルにも制度にも書いていない。
でも、患者さんとのこうした関わりの中に、確かに“本当にやりたいリハビリ”のカケラがある気がしている。
【それでも、僕が目指したいリハビリ】
やりたいリハビリってなんだろう
正直、今の現場で働いていると、
「本当に自分がやりたいリハビリって、なんだろう」って、ふと分からなくなることがあります。
リハビリが必要な人に十分な時間を取れなかったり、本当はしっかり向き合いたい人を後回しにしてでも、単位を稼がなきゃいけない日もある。
制度やルールがあって、現実はなかなか理想通りにいかない。
そんな毎日が続くと、「なんでこの仕事を選んだんだろう」とさえ思うこともあります。
でも。
それでも僕は、やっぱり「その人の人生に寄り添うリハビリ」がしたいんです。
そんなのは綺麗事?
中には、「そんなのは綺麗事」と思う人もいるかもしれない。でも僕は、そんな綺麗事と言われても大切にしたいのです。
ただ歩けるようになるだけじゃなくて、
- 「どんなふうに過ごしたいか」
- 「どんな生活を送りたいか」
一緒に向き合っていく。それが、僕が目指したいリハビリです。
患者さんの口から出た何気ない一言を拾って、
その人の“本当の願い”に気づけたとき、
その目標に向けて一緒に進んでいけたとき、
「これがリハビリだ」って心から思えます。
ある日、ただ桜を見に行っただけのリハビリで、患者さんがほんの少し、心から笑ってくれたことがありました。それだけで、「ああ、やってよかったな」って思えたんです。
もちろん、そんな場面ばかりじゃないし、
忙しくて余裕が持てない日もある。
でも、だからこそ忘れたくない。
僕たちが向き合ってるのは、患者さんの「生活」だってこと。
自分の「こうありたい」を大切に
少しずつでいい。
その人にとって意味のあるリハビリを、日々の中で積み重ねていきたい。
「先生と出会えてよかった」
「あのとき頑張れてよかった」
そんなふうに思ってもらえるような関わりを、これからも大事にしていきたいんです。
理想だけじゃやっていけない現実もある。
でも、理想がなければ、この仕事は続けられないとも思う。
だから僕は、自分の「こうありたい」を、これからも手放さずにいたいなと思っています。
【最後に──あなたの“やりたいリハビリ”は、どんなリハビリですか?】
ここまで、少しだけ本音をこぼしながら書いてきました。
思い返せば、患者さんの一言や表情に救われたことが何度もあって。
思うようにいかない日が続いても、やっぱりこの仕事を続けたいって思えるのは、
「自分の関わりが、誰かの一歩につながった」と実感できた瞬間があるからです。
でも同時に、「これでいいのかな?」って自問自答する日もあります。
リハビリって何のためにやってるんだろう。
僕がやりたかったリハビリって、どんなものだったっけ?
そんなふうに、立ち止まってしまう瞬間もある。
だからこそ、こうして文章にしてみたかった。言葉にしてみることで、ぼんやりしていた想いが、少しだけ輪郭を持って見えてきた気がします。
リハビリの形は一つじゃない
リハビリの形は、一つじゃない。
正解も、おそらく人の数だけあると思います。
でも、自分なりに「こうしたい」と思える形を持っているかどうかで、
日々の関わり方や、患者さんとの距離感って、大きく変わってくる気がするんです。
この記事を読んでくれたあなたは、
いま、どんなリハビリがしたいと思っていますか?
焦らなくていいし、はっきりと言葉にならなくてもいい。でも、もし今ちょっとでも立ち止まっているなら、
一度、自分の「やりたいリハビリ」について、考えてみる時間を持ってみてほしいなと思います。
理想と現実の間で揺れることもあるけれど、
僕たちの仕事は、きっと誰かの「明日」につながっている。
そう信じて、これからも僕は、僕なりのリハビリを続けていきたいです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。